【歴史人(れきしびと)へ】

 

 

歴史の扉の向こうに生きた人々への恋文を綴ってみようと思います。

誰からにしようかなぁーというところで、ただいま、思案中。

もう少し、お待ちくださいませ( by  萩尾)

 関ヶ原にいた・いなかった有名人

 

1995年の歴史雑誌の特集『関ヶ原合戦の謎』より~

    コラム『関ヶ原にいた・いなかった意外な有名人」を執筆したので、それらの人々について。

 

まずは、「いた人々」―宮本武蔵、織田有楽斎、柳生宗矩、可児才蔵ー

 

【 宮本武蔵 】

 剣豪として優れた戦績を残した宮本武蔵も、戦場での功となると、実はたいしたことはなかった。
晩年、肥後細川家に召し抱えられるとき、その口上書に″生涯六度、戦に出、四度の合戦は自分より先駆けした者はない″―などとあるが、これは法螺(ほら)だろう。名だたる合戦に武蔵の名を記したものはない。
『二天記』に″関ヶ原合戦武蔵働き群を抜んず、諸軍士知る所″とあるが、これは武蔵の伝記であるから信憑性はうすい。
 関ヶ原合戦のとき、武蔵は十七歳である。
当時、備前と備中半国・美作・播磨を領有していた豊臣家五大老の一人、宇喜多秀家は17000の兵を率いて出陣し、その中に新免(しんめん)伊賀守宗貫の指揮する新免勢も入っていた。武蔵はこの中の一人である。雑兵ではないがそれに近い。結局、西軍は惨敗し、新免宗貫は九州に落ちのび、武蔵の姿も関ヶ原で消える。
 やはり、武蔵は戦場の英雄ではなく、独立独行の武芸者であったのだろう。

 

【 織田有楽斎 】

 信長の弟長益。本能寺の変のときは二条御所にいたが、うまく脱出した。秀吉の小田原城攻めのあと剃髪して、秀吉のお伽衆となり二千石を受けた。利休七哲の一人、一級の茶人である。
 関ヶ原合戦のときは家康の東軍に属し、それまでは武功には縁遠かった有楽斎は西軍の猛将蒲生頼郷の首をあげ、長子織田長孝も西軍戸田勝成の首級をあげた。家康はこれを喜び、戦後、有楽斎に大和国山辺郡に三万石を与えた。
 大阪冬の陣のさい、有楽斎は大阪城に入り、淀君の叔父ということで優遇され、自らも豊臣に尽力するように見せかけて、家康に内報していた。
 夏の陣には加わらず、茶人としての道を極めたのか、三万石の所領を単純に三つに分けて、四男五男に与え、残りの一万石を自分の″生活費″に当て、その後、悠々自適の茶人の生涯をおくった。
 有楽斎が常に保身に努めたおかげで、この家系は明治を迎えるまでつづいた。

 

【 柳生宗矩 】

徳川家と柳生家の出逢いは文禄三年(1594)の家康と宗厳(むねよし)が立ち合った事に始まる。家康はそのとき、宗厳を家臣にとりたてようとしたが、宗厳は老齢を理由に断り、五男宗矩を推した。宗矩、二十四歳のときのこと。
 慶長五年(1600)6月、家康は上杉討伐のため野州小山にいたが、石田三成の動きには注意していた。宗矩に、柳生庄に帰郷し、上方に挙兵するように命じた。宗矩は宗厳とともに大和の郷士を集め、合戦に備えた。やがて関ヶ原の合戦である。宗厳は一軍を指揮して石田方の後方を撹乱したが、宗矩はさほど目立った働きはしていない。宗矩が真価を発揮するのはもう少し先であった。
柳生家は二千石の加増を受け、翌年、宗矩が将軍家指南役になって、さらに一千石が加増された。
 宗厳は武芸家の道を選んだが、宗矩は将軍家御指南役として勢力をのばし、三代家光のころには大目付にまでのぼりつめ、のち、二万二千五百石の″大名剣豪″となった。

 

【 可児才蔵 】

 福島正則の牢人分として関ヶ原にやってきた可児才蔵は、四十代半ばを過ぎていた。斎藤龍興に仕えたのに始まって、佐々成政まで、主君の運がなく長い間の浪人暮らし、この戦いが仕官の最後のチャンスであった。
 才蔵は笹竹を旗印の代わりにして、西軍宇喜多勢めがけて先頭きって駆け、槍と太刀で奮戦した。合戦後、首実験が行われ、才蔵は家康の前に三つの首を持参した。奪った首は20といい、持ちきれないので、17の首は笹の葉をくわえさせて戦場においてきたと言った。あとで戦場を探してみると、才蔵の言うとおりの生首が17あった。
 家康は才蔵の働きを賞賛し、″笹の才蔵″と呼び、笹の葉の紋をあしらった兜を才蔵に与えた。もちろん、才蔵の仕官は即刻叶い、戦いの五日後には福島正則から五百石を与えられ、正則が広島移封の折には、七百四十六石余の禄高を受ける侍となった。
 そんな勇猛果敢な才蔵だったが、慶長十八年、60歳、畳の上で死んだ。

 

 

次は、「いなかった人々」―細川幽斎、蜂須賀家政、増田長盛、小野忠明、山内一豊の妻、九鬼嘉隆―

 

 

【 細川幽斎 】

 「世渡り上手の運の強い男」と、つい表現したくなる。信長が本能寺に斃れたとき、幽斎の嫡子忠興は明智光秀の娘玉子を妻にしていたが、光秀から加担の誘いが来ると、幽斎は信長の弔いのため―と剃髪して逃れ、出陣した忠興は光秀の居城を陥し、これで秀吉の信頼を得た。
関ヶ原合戦の二ヵ月前、三成の兵15000が幽斎の龍もった丹後田辺城を囲んだ時、忠興は家康に従って上杉攻めに出陣中だった。幽斎は落城時の焼失を逃れるために古今相伝の和歌集に
″いにしえも いまもかわらぬ世のなかに こころのたねを のこす言の葉″
と歌をつけて送った。
 歌人としても有名な幽斎は三条西実世(にしさねよ)から古今和歌集の全解釈の秘奥を伝授された唯一人であったので、 幽斎亡ければ古今伝授をする者がいなくなる。後陽成天皇は三成に勅使を派遣し、田辺城の囲みを解かせた。幽斎は、関ヶ原合戦の三日前、9月12日に丹後亀山城に入った。

 

【 蜂須賀家政 】

 秀吉配下の武将蜂須家小六正勝の子であるが、関ヶ原合戦には参戦していない。
それまでは父とともに秀吉に仕え、数多くの戦場を駆け、四国征伐では阿波一宮城を陥落させ、その功により阿波一円十七万石を与えられて徳島城主ともなった。城主として十八年在職したが、関ヶ原合戦のとき、四十一歳の家政は突然隠居して名を蓬庵と称し、家督を嫡子至鎮(よししげ)に譲ってしまった。至鎮を徳川家に与させて、自分は三成についた。いずれが勝っても家名の存続を計ったわけである。が、病気と偽ったか、隠居の身ゆえと理由づけたのか、自らは出陣しなかった。
伊達政宗が家政をして″阿波の古狐″と言ったのはそんなところからだろうか。
 至鎮は家政より早く没したので孫英鎮が家督を継ぎ、幼少であったので、家政が後見人となり、家政は八十歳まで生きた。
豊臣・徳川の政権交代の時期、激動の中で、とにかくも、家名はしっかりと残した。

 

【 増田長盛 】

外交経済面で才を発揮し、豊臣政権下では五奉行の一人にまでなったが、秀吉没後、家康を討つ陰謀が企てられると、これを密かに家康に通報した。後日のため恩を売っておいたのかもしれない。
 関ヶ原合戦を前にして、一応、石田三成に与して大坂城に入ったが、三成挙兵の第一報を家康に齎したのは、長盛であった。その一方で長盛は、伏見城の攻撃に代理の者に兵を預けて出陣させた。いずれが勝利しても生き残る道を計算したものであったが、その卑怯な振舞は家康の心証を悪くした。
こうして戦後の本領安堵を計ったつもりが、三成に加担の罪で高野山に追放された。のち岩槻城主高力忠房に預けられ謹慎した。
 大坂冬の陣の直前、大坂城に入り、秀頼の身辺を探るよう家康から命ぜられた。が、今度は卑怯ではなかった。断り、切腹を願いでて、大坂夏の陣の直前に切腹して、生涯を終わらせた。

【 小野忠明 】

 小野次郎右衛門忠明、小野派一刀流の開祖であるが、この剣豪は関ヶ原合戦の九9月15日、戦場には間に合わなかった。
 忠明は神子上(みこがみ)典膳と名乗っていたころ、一刀流を創意した伊藤一刀斎と二度立ち会い、二度とも敗れて弟子となった。一刀歳と諸国修行に行き、同じ、一刀歳の弟子小野善鬼と免許皆伝をめぐり、下総相馬郡小金ヶ原の真剣勝負に勝ち、一刀歳から″瓶割刀″を授けられた。鹿島神宮に宝物として伝わった古刀で、水瓶を真っ二つに割ったが、刀身もまがらず、歯こぼれもしなかったという刀である。一刀歳が師からうけついだものである。この古刀は忠明からまた代々相伝された。
 やがて忠明は家康に仕え、秀忠の師を務めた関係で、関ヶ原合戦時は秀忠に従軍した。秀忠は進軍の途中、信濃の上田城を攻め落とそうとして攻撃したが、陥とせず、足留めを喰った。余計なことをしたがために、結局、秀忠軍は9月15日の戦に遅れたのである。

 

【 山内一豊の妻 】

 へそくりで夫に名馬を買わせたという話で有名な山内一豊の妻千代が嫁入りしたとき、山内家は四百石取りだったが、ついには土佐二十四万石の大名になった。
 慶長五年(一六〇〇)のころ、山内一豊は家康の配下で、上杉攻めに従っていた。そのとき、大阪の留守宅に、増田長盛、長束正家連名の石田方への勧誘状が回ってきた。千代はすぐさま、この書状と、″石田三成が何か、やりそうです″と書き込んだ一豊宛の密書を笠の緒に編み込んだ編笠を家臣に持たせ、夫の元に走らせた。
 密書には″上様の態々忠節遊ばされ候″と、家康への忠節を説き、私の事は心配なさらぬよう、いざというときには自害を遂げ、人手にはかかりませぬから―と、書いた。
 一豊は家康にこれをみせ、家康は千代のこの行為を喜び、合戦後、一豊に土佐二四万石を与えた。
 慶長十年、一豊が没すると千代は剃髪して見性院と号し、京都に住んだ。
 十二年後の元和三年(1617)61歳で没した。

 

【 九鬼嘉隆 】

最初は北畠氏に属していた嘉隆はのち信長に仕え、毛利水軍を打ち破って戦国第一の水軍にのし上がった。伊勢・志摩に三万五千石を与えられ、鳥羽城を築城したが、関ヶ原合戦のころの嘉隆はすでに隠居の身であった。家督を継いだ嫡子守隆は家康に従っていたが、嘉隆はこのとき、石田三成に与した。
嘉隆は守隆の居城鳥羽城を奪い、守隆は陣を張ってこれを攻撃したが、果たして、父子の戦いは、いずれが勝っても家名を残すための茶番であったのかもしれない。
戦後、守隆は、家康から鳥羽三万石に加え、伊勢二万五千石を与えられた。が、父の助命に代えて、一時はこれを辞退した。しかし、嘉隆は、10月2日、切腹を遂げ、59歳の生涯を閉じてしまった。助命の知らせが来たのはそのあとの事だったというが、家名存続をはかっての父子敵同士であったのならば、知らせが間に合ったにしても、嘉隆は″助命無用、家名存続こそ大事″と、断ったことであろう。